改良区の歴史

               

菅平ダム建設の起こり

 上田地方は年間雨量950mm前後と全国でも有数な小雨地域として知られており、かつてこの地域は用水の確保に苦労しながら農業を営んでいました。
菅平高原を水源とする旧真田町・上田市・東御市一帯の水田1302haと畑地676haの農地は毎年のように干ばつに見舞われ、収穫ゼロといった悲惨な年もありました。このため、水の確保をめぐった血を見るような激しい争いもしばしば起り、「梅雨時の豊富な水を貯えて、夏の渇水時利用出来たら」と大きな願望を持ち続けていました。

                   

土地改良区の発足と菅平ダム、水路の建設

 昭和25年、農業生産の安定を求める声が大きくなり、神川沿岸の市町村に「農業利水を目的としたダムを菅平高原に」という気運が高まり、地区農業5000戸を会員とした長野県神川沿岸土地改良区が組織されました。
 昭和37年に、県営事業として農業用水のほか、上水道・発電利用多目的利水ダム事業が採用されて、昭和43年10月に現在の菅平ダムが完成しました。
ダム完成までには、農家の事業費負担や建設後の管理等の課題がありましたが、多目的ダムとすることや、財産組合の土地を県が保健休養地として開発・販売し、その余剰金を事業費に充てるという「菅平方式」と呼ばれる手法により解消されました。
 潅漑用水は、一級河川神川から15箇所の堰により取水され約1200haの農地を潤しています。かつて毎年のように干害に見舞われていた流域農地の生産性は、ダムの完成により飛躍的に向上しました。また上水道・発電、河川の流況が安定するなど農業以外にも多くの恩恵をもたらしました。
 これらの恩恵は、「神川の清流を守れ!」と流域住民が一丸となって硫黄掘削計画を阻止したことや、リゾート開発手法の先駆けとなった「菅平方式」の発案など、先人達がその力と知恵を結集させて成し遂げたダム事業の成果であり、こうした歴史はいつまでも忘れられることなく語り継がれて欲しいものです。
 ダム建設から50年以上が経過し、補修や補強、土砂の搬出などが必要となっていますが、ダムは今後も地域発展の礎として不可欠な施設であり、次世代に良好な状態で引き継ぐことが私たちの使命となっています。昭和50年には旧真田町・上田市・東御市を結ぶ約14kmにも及ぶ「神川左岸幹線水路」が完成し、この水路の新規取水によって農業生産が飛躍的に向上し、安定した水稲の生産に加え、りんごやブドウの生産が盛んに行われるようになりました。
 水路は、ほぼ暗渠管で、頭首工から取り入れられた後はいくつかの分水・配水池でしか姿を現わしませんが、神川左岸一帯の農地をしっかりと潤しています。

 
     
                   

水と巡る信州上田地域の旅~菅平ダムと神川の水利用~