清流を守った人々
清流を守った人々
上田市から遥か北東に、なだらかに広がる菅平高原を囲んで、四阿山、根子岳の山々がくっきりとそびえ立つ。
この四阿山から流れ出た清流は、大明神沢と呼ばれ、ここから幾つかの支流を合せて千曲川に合流する。その長さ約21kmを神川と呼ぶ。この川は、1,548ヘクタール(平成8年)の田畑を潤おす、唯一のかんがい用水である。
同時に、上田市民の上水道水源としても利用されている重要な川である。
ここは、全国でも稀な降雨量の少ない地帯、(平成8年の年間降雨量742mm)そのため、水確保をめぐって水争いもしばしば起こっていた。
神川水系の人たちは、梅雨期の豊富な水を貯めて渇水期に使いたいという願いが強く、神川の上流にダムを造って欲しいという事は、長い間の悲願であった。
戦後、食糧不足対策として農業経営の安定が大きな命題として課されていた。
昭和25年、当時、神川沿岸1市8カ村の理事者、議会、その他関係者の間に「農業用水を目的としたダムを」という気運が高まった。
そして、「ダム建設期成同盟会」が結成され関係方面への運動を展開し、ようやく軌道に乗ろうとした。その矢先、昭和27年6月、住民の死活に値する難問題が持ち上がった。
それは、東京の業者が、神川の水源地である菅平十の原地籍で、硫黄の掘削を始めるという事で、すでに、1年前から試掘が開始されていたことが判明した。
そうなれば、当然、神川は鉱毒に侵され、沿岸の農作物はもちろん、大損害をうけるし、生活用水にも悪影響をおよぼすことは必死であった。地域住民は、この重大問題の解決のため結集した。
事務局は、丁度その年に設立された神川沿岸土地改良区に置かれ、鉱毒反対期成同盟会も設立された。会長には、当時、神川村長で人望の厚かった、故掘込義雄氏が、就任した。
早速、沿岸の1市8カ村の市、村長が集められ、掘込氏が徹夜で作った「呼びかけ文」に鉱毒の恐ろしさと、事の重大さをしらされ、硫黄掘削を”阻止しなくては”の意を新たにしたのであった。
連日の対策会議、現地視察、地域を挙げての住民大会、県や国への繰り返しの陳情等、息つく間もない関係者の毎日であった。
水質調査資料作成の為に台風の中をズブぬれになりながら、稲株を採集して日本農業研究所へ届けるため、夜行列車で上京した記録も残っている。
ありとあらゆる手を尽くした2年間であった。そして遂に昭和28年10月9日、採掘中止の裁定が出た。住民一体化の勝利であった。
一方、この問題でダム建設への計画は立ち消えとなっていたが、関係市村や、当土地改良区では、どうしてもダムを造って「農業振興を図りたい」と強く要望し、ここにダム建設の気運が再燃した。
そして、鉱毒反対運動の勝利をバネに住民が更に結集し県、国への原動力となったのである。
しかし、ダム実現までの道は厳しかった。1番のネックは10億円をこえる巨額な建設費の地元負担金の捻出であった。鉱毒問題が解決した、昭和28年は天候不順のため、大凶作で、負担金の目処が立たず結論もでないうちに、農林省から計画撤回の話しさえ出てきた。
そして、当時、県会議員であった掘込氏はこの話を聞いて驚き、再度近隣の市村長に呼びかけ、懸命に取組みを展開した。
そして、なんとか建設の承認を得る運びになったが残ったのは地元負担金であった。
しかし、この難問題も粘り強い折衝の結果「農業、発電水道源」の多目的ダムとして(後に名づけられた)”菅平方式”で建設が決まった。
ダムが完成したのは、昭和43年。計画から実に20年近い歳月が流れた。幾多の困難を乗り越えて、たどりついたダムの誕生であった。
そして、神川水系をめぐる多難な足取りはそのまま、長野県神川沿岸土地改良区のあゆみでもあった。
神川は、今日も豊かに流れる。その高らかな瀬音には、遠い昔からの清流を必死で守ってきた、幾多の先人たちへの賛歌が込められていると言えよう。
(参考文献、掘込藤一著、神と人々の水」)